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​私は今日、学校に行かないことにした

 

生きるということは選択をすること。私は今日学校に行かないという選択をした。顔を洗って、歯磨きをして、朝食は食べないことにした。化粧は薄く、少しだけ綺麗に、なるべく自然に。お気に入りの白いワンピースを着て、先日駅前のショッピングモールで買った流行り色のサンダルを履こうと思ったけれど、やっぱりいつも履いている淡い色のものを選んだ。鞄の中には携帯電話と財布、それと読みかけの小説を入れた。今日は読めないかもしれない。それでも一応ね。

「行ってきます。」

返事はもらえなかった。街はまだ眠っている。みんなが目を覚ましてしまう前に終わらせないと、でないとまた、頬を叩かれてしまうから。空を見上げても月が見えなくなっていたことに、私は少しだけ安心した。

 

学校には歩いて通うことにした。イヤホンじゃなくて、ヘッドホンで音楽を聴くようになった。友達は作らないことにした。授業はちゃんと受けて休み時間は本を読もう。席替えで一番前の席になった。授業中に感じる後ろからの視線。名前を呼んでも無視されるようになった。わからないことが増えた。机の周りにゴミが散らばるようになったから、授業が終わる度に拾うことにしよう。物をよく失くすから、大切なものは持って行かないようにした。落書きは消すことにした。やっぱりやめた。先生に相談することにした。先生が悪者に見えるようになった。誰も信じられなくなったから、学校では喋らないことにした。家に帰ったら親に頬を叩かれた。泣かないことにした。わからなかったことがわかるようになった。自分が嫌いになった。好きだったあのバンドも、テレビに映るあの人も、全部嫌いになった。ノートを破って、破って、破って。電気を消してベットに横になったら、涙が止まらなくなった。泣かないことにした。泣かないことに、したんだ。笑おう。笑ってよ。できないよ。窓から見える月が、凄く綺麗だった。

それから結局眠れなくて、時計を見ると長い方の針が縁起の悪い数字を指している。私の部屋は見えない何かで溢れていた。心みたいだね、ここは。自分の肌がやけに白いことに気がついて、素直に気持ちが悪かった。制服を脱いだ。無造作に立てかけられた鏡には私が映っている。

『汚れたままの自分を愛して』

そんなことできるわけないよ。私は私が、大嫌いだ。

『不幸に浸らないで、幸せになることを諦めないで。』

今まで精一杯やってきた。でももう無理、限界。これ以上頑張ったら不幸になるどころか死んでしまう。

『聴こえていますか?』

聴こえない、何も。私は私じゃなくなった。繋ぎ止めていた糸が切れた。

私は今日、学校に行かないことにした。

 

生きることが選択をすることだとしたら、私は一体どれ程の選択を間違えてきたのだろう。自分が間違えたくせに誰かのせいにして、勝手に傷ついて被害者のふり。私のせいじゃないか。あれもこれも。そうするのが一番楽だから?ううん、違う。本当にそうなんだよ。後悔は連鎖する。たった一言で全てが報われることがあるのなら、その逆だってある。他人の気持ちなんかわからないし、心の声は聴こえない。でも信じることはできたはずだ。できていたはずなんだ。少なくとも幼少期の私にとって、それは容易いことだった。今では聞き飽きた「ありがとう」や「ごめんね」も、君がくれた「大丈夫」も大切に心にしまって、何も考えずに泣いて、笑えていたんだ。なら一体いつから、私はこんな人間になったのだろう。その答えは明白だった。それが悲しくて、でも腑に落ちてしまって。目的の場所に向かいながらそんな意味のない自問自答を繰り返していた。答えがわかっても間違いだらけの答案用紙。私は人として落第だ。今回出した答えも、もしかしたら間違っているのかもしれない。でも、もうこれしかわからないよ。消去法ですらない。選択肢もない。私は階段を登る。

 

この建物が廃墟になる前の姿を、私は知らない。私が生まれた時からここは終わっていて、そして今もまだ存在し続けている。取り壊しの予定も、そのような貼り紙も見たことがない。教室を街に例えるとしたら、この廃墟はきっと私だ。壊れても、穴が空いても、汚れても、助けに来てくれる人はいない。見えているはずなのに目を逸らされる。風化していく。それならもういっそ、お前の中から私を殺してよ。独りは嫌いじゃない。友達がいない私にとって、団体行動をするくらいならむしろ独りの方がいい。でもそれは私があいつらのことを嫌っているからで、友達や恋人のような存在がいればもしかしたら。

「人は独りで生きていけない。」

「孤独は人を殺す。」

誰かが言ったこの言葉が孤独の私に突き刺さる。ざっくざっく。ざっくざっく。心からだらだらと血が流れ、脳に信号を送るも、脳も助けてくれない。乗っ取られたみたいな感覚。私の中にいるもう一人の私が不幸を守っている。私は彼女から私を取り戻さない限り、幸せにはなれないのかもしれない。幸せってなんだろう。不幸な人を見つけて笑うこと?他人の夢を踏み潰して夢を叶えること?生きているだけで幸せと言える人は、きっと何も知らないんだ。死んじゃえばいいのに。なんて、そんなことを思っている奴が幸せになってたまるか。何やってんだろうね、ほんと。笑えてくるよ。

階段を登った先は駐車場のような場所だった。携帯のライトで照らせる範囲は限られている為奥までは見えなかったが、平行に引かれた白線や、赤いパイロンが見えた。壁には冷たい字で6Fと書いている。この上の階が目的地のようだ。思っていたよりも時間がかかってしまった。やっぱり小説を読む暇はなかったみたい。一つ大きな溜息をついて、私は屋上へ向かった。

 

そこには何もなかった。今までの光景からは考えられないほど綺麗な白い柵と、灰色の無機質な床。誰もいない教室のドアを開けた時のような静けさ。もう終わってしまった場所。現実を突きつけられた気がした。ここには私しかいない。でも確かに私はここにいる。呼吸音が響く。心臓が鳴いている。私が生きている理由なんか誰にもわからない、私にも、神様にだって。でも、それでも今日まで生きてきた。何もわからないまま、何も見えていないまま。傷つけて、傷つきながら、いつか満たされると信じて、大きな空白を少しづつ埋めていくように。十七年もかかってしまったけれど、私はようやくそれに出会うことができた。だから。だからもう終わりにしよう。十分だよ。今ならこの言葉の重みがわかる。ちゃんと言うから。私はもう嘘はつかない。これが私の最後の選択。

 

私は生まれて初めて、死にたいと思った。

 

人は死んだらどうなるのだろう。そんなことを今更考えている。幽霊になるとか、生まれ変わるとか、天国とか、地獄とか。あくまでイメージの話しかできないが、私は人は死ねば無になると思っていた。存在を失って、意識も失って、自分が誰だかわからないまま、ただ時間だけが過ぎていく。地獄よりも地獄。今からそこに行くと思うと少し怖い。あと一歩踏み出せば、全て終わらせることができるのに。最後の最後まで、私は私を好きになることはできなかった。でも、それでもいいよ。だってこれが私なのだから。私は柵から手を離した。息を吸う。息を吐く。足が震えている。目を閉じた。思い浮かべるのは数少ない私の幸せな思い出達。今日まで大切にしまっておいて本当によかった。おかげで笑ってお別れができるよ。私は目を開ける。昨日と今日が混ざりあった時間。空はいつかみたいな色をしていた。どうやら「おはよう」は言えそうにないね。私はもう一度目を瞑り、そして最後の一歩を踏み出した。

 

学生だった頃のことは、もうほとんど覚えていない。まるで蓋がされているみたいに触れられないそれは、恐らく私の中の核爆弾。もしもスイッチが押され爆発してしまったら、私は一体どうなるのだろうか。声が聴こえる、心の奥から。彼女が私に向かって叫んでいる。

「忘れるな、私のことを。どうしてお前は笑っているの?ねぇ、なのにどうして私は泣いているの?」

彼女の声はとても綺麗で、今にも壊れてしまいそうで。私が学校を辞めてから数年が経ったある日、私はこの街に帰ってきた。白いワンピースを着て、淡い色のサンダルを履いて。鞄の中には携帯電話と財布、そして読みかけだった小説が一冊。あの日以来続きを読むことが怖くて、ずっと本棚の奥で眠っていたそれを持ち出したのは、決して思い出したからというわけではない。だって、忘れたことなんて一度もないのだから。この本のことも、あの日のことも。私が今生きているのは、あの日の私が選んでくれたおかげだから。昨日も、一昨日も、その前も。今までの全ての私が、今の私を生かしてくれている。だから。私は彼女の声に答える。

「忘れない。忘れないよ。この傷も、あの出来事も、あなたのことも。一生背負って生きていくと私は決めたんだ。だから今日も生きることを選ぶ。幸せになることを私は死ぬまで諦めない。」

全ての私と向き合うには、まだ時間がかかると思う。記憶の蓋を開けることは困難で、中にある爆弾を爆発させる勇気も、今の私にはない。でも、もうわからないままにはしないから。見えていないことにはしないから。この廃ビルでの出来事、私が一番終わりに近づいたあの時、私を救ってくれたのは。

 

屋上から観る夕日が、死にたくなるほど綺麗だった。

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