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8月31​日

 

僕が諦めれば解決することばかりだった。

テレビに映るニュースは現実味がなくて、家の外へ出れば、遊び疲れた子供が大人みたいな会話をしていて、公園が枯れているのか、それとも僕が枯れてしまったのか、いつもより水分が足りていない街、そこに響いているのは退屈な音ばかりだった。太陽が飲み込んでしまった後の空気は美味しくない。息を吸うだけで疲れるのは夏バテのせいかな。体力に自信がないのは友達がいないから。歩く速度が、僕の孤独の証明だ。寂しいわけじゃないさ。隣に誰もいなくても、僕の人生に問題はない。誰かの影に隠れなくても、この暑さから逃れる方法はあるし、話し相手や場所くらいは、簡単に作れる時代だから。つまらないよ、友達なんて。上辺だけなぞって、適当に話すくらいが楽しい。そんなことを考えている自分が、僕は誰よりも嫌いだった。ずっと間違え続けている気がする。いつもの場所から夕日が撮影できなかったから、僕はそう思った。

写真を撮ることだけが僕の生きがいだった。誰かに見せるわけでも、印刷して部屋に飾るわけでもない。残すというただそれだけを理由に、僕はあの日から、廃ビルの屋上で夕日の写真を撮り続けている。数秒経つだけで全く違う表情を見せる空、トレースされた日々の中で唯一変わり続けるもの、ここにいる証明、誰かに言えば笑われてしまうかも知れないけれど、僕はこの空に、確かに救われていた。

公園を過ぎ人気の少ない路地を抜けた先、周りに誰もいないことを確認し、廃ビルのやけに乾いた階段を、僕は普段と同じ速度で登る。人生は、映画みたいにはならない。奇跡的な展開に期待して生きるのは疲れる、僕が作った神様は、簡単に僕を裏切るから、捨てよう、希望なんて、奇跡なんて、最初からここにはないんだって信じて、下を向いて歩く方が安全だ。先は見えなくていい。自分の足が地面についていることさえ確認できれば、僕はそれでいい。人にぶつかったら謝ればいいんだよ、たとえ許されなくても、痛い思いをして解決できるなら、夢を見せられるよりずっとマシだ。これからも僕はそうやって生きていくだろうと、それだけはなぜか信じて疑わないのは、誰かの訃報を聞いて、自分は死なない気持ちになるのと似ている。そんなんじゃ遠過ぎるいつかに、後ろから刺されて殺されるよ、なんて、何をしたって無駄だ。変わったって変わらないさ、どんな人生にも、どんな物語にも終わりが来ること、死ぬことは特別なことじゃないのだから。

でも、僕は受け入れられなかったんだ。階段を登った先、夕日に照らされた屋上を囲うフェンスの向こう、僕がずっと踏み出せないでいた一歩を踏み出そうとした彼女のことを。

僕の物語は多分、ようやくこの日、始まった。

 

 

 

オープニングテーマなんてないから始まりのきっかけがわからない。これまでのあらすじなんていらない。大事なのは中身だ、ゆっくりでも、ちゃんと前に進んでいるのなら、それは立派な物語。でも、時間は僕らを待ってくれない。何もしなくても過ぎて、身体は老いていくから、休むことが勿体無く、悪いことに思えて、無理矢理にでも先に進めようとし、駄作が生まれる。そしてまた、自分の人生を簡単に諦めようとする。考えなくていいのに、こんなこと。気にしなくていいのに。自分の為だけに生きていける人が羨ましい。そう思うのは、きっと僕が弱いからだ。弱いから誰かに縋って、生きる理由すらも勝手に託して支えてもらう。なら、結局僕も、自分の為に生きている。だから彼女に向かって叫んだことも、きっと僕の為だった、僕が嫌な気持ちになることを防ぐ為に、「駄目だよ。」なんて。

「駄目って、何が?」

振り向いた彼女の姿は、夕日に照らされてオレンジ色に輝いていた。逆光によって生まれた影とのコントラスト、カメラを持っている右手が疼く。夕日以外のものを撮りたいと初めて思ってしまった程、それは、とても綺麗な景色だった。

「自分で死ぬのは、駄目。何もしなくても人は死ぬんだ、そんな誰かに迷惑がかかる死に方をするのはよくない。」飛び降りた先に誰かいるかもしれないし、それに。

「ここは僕の大切な場所だから。」

彼女が動く度に世界が揺らぐ。変わらないと決めつけていた僕を、容易く変化させる。

「大切な場所…ね。」

彼女は超えていたフェンスの内側に戻り、真っ直ぐ僕の目を見た。彼女の瞳はとても綺麗で、どこか儚く感じた。強い光なのに、触れてしまえば、壊れてしまいそうな。そんな目をしていた。

「君は多分、私と似ているね。」

「えっ、どこが。」

「雰囲気、かな、よくわからないけど。あと瞳が綺麗。」

「それはきっと、夕日が写っているからだよ。」

こんなに近くにあるのに、絶対に届きはしない距離、人の心みたいだね。静止するのは空気と気持ちだけ、空は今も動き続けているから追いつけないよ。オレンジは、どんどん深い青へと変化し真っ黒になること、僕が知らなくてもそれは変わらない。

「綺麗だね。」彼女は言った。

 僕はそれが、嬉しかった。

 この物語はここで終わるのが正解だったのかもしれない。何もなかったみたいに階段を降りて、彼女のことを思い出にすればよかったのかもしれない。でも、僕は続ける、彼女から目が話せないまま。

「どうして。」

知りたかった。出会ったばかりなのに。そんなことを思ってしまった自分が不思議で仕方ない。やっぱり僕らは、君の言う通り、似ていたのかもしれない。今となって、僕はそう思うようになった。

ねぇ、どうして君は、そんなに綺麗なのに。

「死のうと思ったの?」

諦めて、動けなくなっていた僕の目の前にあったのは、きっと奇跡より微かで、希望よりも切ない何かだった。

 

 

 

 

きっかけは、やろうと思えば、何にでもすることができた。パンを切った後のナイフ、踏切、駅のホーム、長い間使われていないハサミ、屋上。ここには凶器が溢れているから、終わらせることは、僕にとって簡単なことだった。いつでも死ねる、いつでもいい。痛いことも、寂しいことも慣れているから大丈夫だよ。夜、眠る前に流れた涙の理由は探さないまま、もう何回も、意味のない今日を過ごして来た。フォルダに溜まっていく夕日の写真だけを、明日に持っていく。いらないものは捨てた、重たいから、心だって本当は必要なかった。それなのに捨てられないのは、僕が人間である限り、どう足掻いても、心から逃げることができないから。何も感じない?何も変わらない?変わっていない?嘘だ。うるさい。目を背けても逃げることはできない。生まれて初めて自分から、他人の人生に指紋をつけた。後悔しても、もう遅い。彼女は少し考えた後、僕の質問に答えた。

「本当は、どこでもよかったし、あまり先延ばしにならないならいつでもよかったの。たまたま今朝起きて、心と身体が、お互いに許してくれたような、そんな気がして。この場所と時間を選んだのも、何かきっかけが欲しかっただけ。昨日は雨だったから、今日は夕日が綺麗かなって。なら、それだけ見て、その中で、私は死にたいと思った。叶わなかったけどね、君のおかげで。だからその質問に答えるなら、なんとなく、かな。なんとなく死のうと思って、それで、なんとなく死ななかった。」

陽は沈み、僕と彼女はフェンスに背中をつけて、どこに辿り着くのかもわからない会話を続けた。僕には、いや、恐らくきっと彼女も、どうしてこんなことをしているのか、わかっていなかったと思う。夜になると少し、今が夏だということを忘れる。太陽さえ沈めば、僕の好きな涼しい風が吹くから。上を見上げれば、ただひたすらに、星が綺麗なだけだから。

「君はどうして、ここに来たの?さっき、大切な場所だって言っていたけど。」

僕は彼女の質問に答える。

「夕日の写真を撮りに来たんだ。初めて撮った日からほぼ毎日、ここで写真を撮ってる。」

なぜだろう。彼女にだったら、僕の話をしてもいいと思ってしまう。

「僕も、君と同じで、最初は死にたいって思っていたんだ。ここから飛び降りてやろうって。でもこのフェンスを越えることは、僕にはできなかった。」

僕は、君より弱い。だから飛び降りようとしていた君を止めたんだ。自分にはできなかったことを、君が目の前でやろうとしていたから。

街はすっかり夜に馴染んでいる。僕の知らないところで世界は回っていく。死んだり、生まれたり、変わったり、変わらなかったり。全部を知ることはできないから仕方ないと言い聞かせて、妥協した日々に溶ける、目の前の世界が全てなら、きっと僕は主人公になれたのだろう。上手くはいかない、それが、人生ってものだ。またそうやって誰かが偉そうに話をする。知った風なことを言うな、神様でもないくせに。最初はみんな、同じだったのにな。一体どこから、僕らは道を間違えたのだろう。どうして僕らは、こんな場所に辿り着いてしまったのだろう。そろそろ帰ろうかと、僕が言おうとしたその時、彼女は立ち上がって、僕に言った。

「一つだけお願いがあるの。」

僕は彼女のお願いを断ることはできなかった。

 

 

 

 

こんなに近くにあったのに、最後に海に行ったのは、もう随分前になる。海水の匂いが鼻をつく、決して綺麗とは言えない砂浜が、僕を安心させた。右手にはコンビニの袋、中にはさっき買った手持ち花火とライターが入っている。

「ありがとうね、付き合ってくれて。」

まだ状況がうまく理解できていない僕を置いて、彼女は凄く、楽しそうだった。

 火をつけると、それは煙と共に勢いよく光始めた。赤、青、緑、黄色、ランダムに変化していき、そして最後は驚く呆気なく、終わりを迎える、光が消えて、静かになる。花火ってこんなに切ないものだったっけ。彼女がしているから、そう思うのかな。暗闇の中、小さな光を操る彼女は、まるで魔法使いのようだった。君も一緒にやろうよと、彼女は僕に花火を渡し、杖の先を重ねて火をつけた。新しい光が生まれる。そして、また消えていく。そうやって進んでいくしかないのかもね、僕らは。奇跡的に交わっても、いつかは離れる。この時間もすぐに終わるよ、花火みたいに呆気なく。笑っても、泣いても、変わらない速度で、まるで夢みたいに思い出になっていく。僕も、君も、小さくて、弱い光。主人公になった誰かが世界を変えていくのに追いつけなくて忘れられて、エンドロールには、僕らの名前は載っていない。

ねぇ、君は一体、これまでどんな道を歩んで来たの?私の知らない景色ばかりが見えていたはずだから、もっと君に教えてもらえばよかったかもね。今日会えたなら、きっと明日も会えたから。君のおかげなんだよ。夕日を綺麗だと思えたこと。花火が楽しいと思えたこと。会ったばかりなのにね、どうしてだろう。多分君といたから、そう思うことができたんだ。

 君はさ、運命って信じる?私は信じたくなかった。でも、生きていくうちに、だんだん心と身体に刻み込まれていって、私がこんな私になったのは運命だから仕方ないんだって思ってしまうようになった。明日は明日の風が吹く、でも今日よりも強い風が吹くかもしれない、突風で突き落とされるかもしれない。怖い。これからのことを考えることが、とても怖い。だからもう、私には今だけでいいの。最後くらい、自分の好きな時に、明日なんて見えないくらい幸せな今の中で。だから。

「ありがとう。」

最後の一本だった、線香花火の光が消えた。

 

君はいった。

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